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【今日は何の日】32年前の1993年6月10、11日。YMOの再生(再結成)ライブが東京ドームでおこなわれた日

細野晴臣さんなら、最終日に何か驚くようなことをやるに違いないーーー。

いまから32年前の1993年。当時まだ高校2年生だった私は、インターネットもない時代なので「チケットぴあ」の予約専用の電話番号へ何度もかけ、東京ドームでおこなわれるYMOの再生(再結成)ライブ「TECHNODON LIVE」の最終日(6月11日)のチケットを取るために必死でした。

何度目かの架電でステージからはるか遠く離れた席を私と友人の2人分を取ることができました。3年前の1990年から「遅れてきたファン」を始めた私が、初めて「推し」のライブに行くことが可能になった瞬間でした。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)は、言わずと知れた、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人が1978年に結成したテクノポップユニットです。

image by: Photograph by Kenji Miura. Distributed by A&M Records, Public domain, via Wikimedia Commons

1983年の武道館ライブで散開(解散)してしまいましたが、その間、日本のお茶の間に「テクノポップ」という新しい音楽を浸透させた功績は、いまさら私が紹介するまでもないと思います。

しかし、YMOが大ブレイクした1980年、私は弱冠5歳の保育園児です。散開した1983年に至ってもまだ小学2年生で、YMOの音楽が耳に届くにはあまりにも幼すぎる年齢でした。お兄ちゃんやお姉ちゃんからの影響で耳にしていた友人もいたようですが、幼少期の私は音楽とは縁がなく、テレビアニメの主題歌をカセットテープで聴くくらいで、レコードも『小学◯年生』の付録だったソノシートでドラえもんの歌を聴くのがやっとの状態だったのです。

そんな私がYMOと出会ったのは1990年、中学3年生のときです。まだ開局したばかりのFM埼玉(NACK5)の火曜深夜に放送されていた無名時代の六角精児さんらがパーソナリティーの「それ行け!HOMO LUDENS リラックスデラックスチューズデー」という番組で、大槻ケンヂさんと有頂天のケラこと現ケラリーノ・サンドロヴィッチさんらがやっていたインディーズバンド「空手バカボン」の「来るべき世界」という曲が流れたことでした。

この曲、聴いたことがある方にはわかると思うのですが、YMOの「あのインスト曲」そのものだったのです。しかも歌詞付きです。

まだYMOのことを知らなかった私は、このふざけた歌詞で印象的なメロディーの曲が気に入ったのですが、六角さんが番組内で「このYMOとかテクノっぽい曲、好きじゃないのよ」と語ったことで、はじめてYMOという単語を耳にしたのです。

この曲には元ネタがあるのか、と思った私は、YMOという名前を手がかりに、近所のレンタルCDショップへ行ってYMOという棚にあったCDを片っ端から借りることにしました。そして、「空手バカボン」の「来るべき世界」は、YMOの「ライディーン」という曲そのものであることがわかったのです。

それからというのものの、六角さんが「好きじゃない」と言っていたのとは対照的に、私はYMOの沼にハマってゆきました。

中古レコード店を行脚して当時のアナログ盤を集めはじめ、アルバムもシングル盤もお年玉を切り崩して購入しました。ミュージックビデオを収めたVHSも、近所の新星堂というCD店でメーカーから取り寄せてもらいました。

A Y.M.O.FILM PROPAGANDA』という散開ライブとミュージックビデオを映画仕立てにした作品のVHSに至っては、かつてピーター・バラカンさんも所属していたヨロシタミュージックの倉庫を探してもらって取り寄せました。1990年頃のYMOは、CD店ではすでに忘れられた「過去の存在」になっており、アルバムのCDやビデオを収集するのに大変苦労しました。

翌1991年、高校に入ってからもYMO熱は止まず、聴くだけでなく演奏したい、YMOの曲を打ち込みしたいという思いが強くありました。そして、アルバイトでお金を貯め、念願のキーボードを買うことができたのです。小室哲哉がプロデュースしたYAMAHAの「EOS(イオス)B500」というキーボードでした。シーケンサー機能付きで8トラックもあるので、私はさっそくYMOのコピーに取り掛かりました。

選んだ楽曲はユキヒロさん作曲のライディーンではなく、教授の「TECHNOPOLIS(テクノポリス)」でした。

お茶の水の楽器屋さんで楽譜を入手し、一音一音キーボードの鍵盤を押しながら丁寧に打ち込んでいきました。まだパソコンなんて個人で買えるような時代ではなく、DTMが普及する前の時代です。和音の部分は自分で弾いてリアルタイム録音し、ドラムのパートもプリセットされたパターンなどは使わずに一つづつ入れました。

そして翌1992年、YAMAHAのEOS B500のみで作ったYMO「テクノポリス」のカバー音源は完成しました。リード音は自分で生演奏するために打ち込まず、いつかボコーダー(機械っぽい声になるエフェクター・シンセサイザー)で「TOKIO」と入れるための「間」も空けておきました。

こうして完成したのが下記の音源です。長いこと忘れていたのですが、キーボードが壊れはじめたとき「本体の中に残っている音を保存しておこう」と、2000年代に入って簡易的なミキサーを買ってmp3ファイルとしてPCに保存しておいたのです。33年の時を経て、この音がネット上で聴けるようにしました。

この音源が完成した頃から、私の興味はメンバーのソロや、細野さんがYMO以前に手掛けていた音楽に移りはじめ、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなども聴くようになっていました。

フジテレビの深夜番組「カルトQ」で「YMO」がテーマに選ばれることになり、高校2年生でしたが回答者募集の告知を見てハガキで応募しました。

まだお台場に移る前の「河田町」時代のフジテレビのADさんから電話があり「高校生の応募は面白いから、ぜひ予選に来てください」と言われ、ボロボロの建物だった旧社屋のフジテレビの会議室で、大人のYMOマニアの皆さんに混じって「カルトQ」の予選問題を解きましたが、当然ながら問題がムズ過ぎてまったくダメでした。

翌1993年3月、オンエアされた「カルトQ」のYMO回は、当時まだ電気グルーヴにいた砂原良徳(まりん)さんが優勝しました。同年、YMOが再生(再結成)するというニュースがスポーツ新聞に載り、テレビのワイドショーにも取り上げられました。数年前まで、あれだけ忘れ去られた存在になっていたYMOが、一時的に再結成し、CDアルバムを出すほか、ライブもやるという、にわかには信じられないニュースでした。

その後、3人が手錠で繋がれたままの「ベッドイン記者会見」もおこなわれ、アルバムや東京ドームの2daysライブも発表されました。同じラジオを聴いていた中学時代の友人とライブへ行く約束をし、チケットぴあの電話予約で何とか席を確保できたのです。1993年6月11日の最終日は、冒頭にも書いたように、何かシデカスかもという期待感からか先に完売していました。

あの日、私はかつてのユキヒロさんと同じような「人民帽」をかぶってライブにのぞみました。上野アメ横の「中田商店」というアーミーショップで、当時は格安で人民帽がバッジ付きで売られていたのです。人民帽のツバの裏には「在広東少年」と手書きで書いていました。

当日、「CASTALIA」「BEHIND THE MASK」「中国女」「東風」「FIRECRACKER」は演奏されたものの、「ライディーン」はエンディングのみ一瞬だけ。それでも私は満足でした。自分が「推し」ているバンドが一瞬だけでも復活し、そのライブに行ける、それだけで十分でした。

 

豆粒のように小さな3人を肉眼で追いながら、私はYMOと同じ空間にいることができただけで満足し、東京ドームをあとにしました。

あれから32年。高橋幸宏、坂本龍一のお二人は2023年に相次いで鬼籍に入ってしまいました。改めてお悔やみ申し上げます。

そして私はといえば、あんなに憧れていたYMOの所属レコード会社「アルファレコード」の音楽出版社「アルファミュージック」公式ページで、滝沢洋一という作曲家・シンガーソングライターの取材記事を、音楽ライターとして連載で書かせていただくという栄誉に浴することができました。今も、滝沢洋一さんの音楽活動と生涯を追い続けています。

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1993年6月11日。それは私にとって一生涯、忘れられない日です。

image by: Photograph by Kenji Miura. Distributed by A&M Records, Public domain, via Wikimedia Commons

 

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都鳥 流星

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